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第2回「福岡の喫茶店『珈琲美美』と、ある常連さんのこと」/珈琲もくれん村上さんと珈琲のはなしをしよう。

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第2回「福岡の喫茶店『珈琲美美』と、ある常連さんのこと」/珈琲もくれん村上さんと珈琲のはなしをしよう。

村上さんがサイフォンでの珈琲の淹れ方を教わったのは、なんと開店3日前。その後は実践で慣れていくという現場主義のもと、『珈琲もくれん』は、じゃんじゃん横丁初の喫茶店として、1999119日にオープン。村上さんが22歳の時でした。
※取材、撮影は20212月中旬に行いました。

 

村上(以降、省略)
前回もいいましたが、僕、他の珈琲店などで修業はしていません。そこで、もくれんを開店した当初に、じゃんじゃん横丁の皆さんで「九州へ研修にいかへん?」という話になりました。

お店始めた時、奈良からやって来た陶芸家のお客さんに「ここの珈琲の味に似た珈琲を福岡で飲んだことがある」と告げられたことが気になっていました。うちの店では当初、銀杏煎りを使用した自家焙煎でしたが、これに似た珈琲があるのかなと興味が湧いていて、研修時にみんなで飲みに行きました。お店は福岡市の『珈琲美美(こーひーびみ)』です。

 

――味の印象はどうでした?

味はねぇ、苦かった(笑)。苦くて濃くて、でもおいしかった。そこで、同じような珈琲を和歌山に帰ってから淹れましたが、「こんなん苦くて飲まれへん!」って横丁のみんなの好みには合わなかった。『珈琲美美』がネルドリップ方式だったため、うちの店もサイフォンからネルドリップに変えましたが、「おいしくない!」と(苦笑)。あの日以来、“おいしいって何なんやろう?”と考えるきっかけになりましたし、珈琲について勉強し始めた。珈琲の世界に本格的に入ったきっかけが『珈琲美美』でした。

普段は外食もあまりしなくて、喫茶店もほとんど行かないのですが、『珈琲美美』には通いました。僕は大分出身なので、里帰り時に途中で寄って、行き帰りでそれぞれ寄って、というのを繰り返していました。味もあるのだろうけど、お店にいる人や雰囲気に惹かれたのだと思います。

ご主人が亡くなった後は、奥さんが跡を継がれて、娘さんと従業員さんと一緒に店を切り盛りしています。基本は家族経営なのですが、そういうのもいいですよね。お店は珈琲屋さんとしての魅力に溢れています。

 

――初めてお店で出した珈琲のことは覚えていますか?

なんとなく覚えていますけど、あまり気負いがなくて。緊張はしていたと思うんですけどね(笑)。でも一方で、別の事ではとても悩んでいて、お客さんに相談したりしていました。「言葉づかいはどうしたらいいですか?」とか。高校を卒業してすぐ働き出したので丁寧な話し方がわからない。でも社会人のお客さんに「自分で丁寧と思う話し方で話すのがいいんとちゃうかな」といってもらって、気が楽になりました。

もくれんをオープンした1999年の少し前、新堀に『香豆庵』という山本珈琲の豆を使う珈琲屋さんがあったそうです。そこの珈琲は濃くておいしかったそうで、当時はそこからのお客さんもよく来てくれていたと思います。

 

――これまで多くのお客さんがいらっしゃったと思いますが、なかでも印象に残っているお客さんはいますか?

近所に住んでいた画家の津田和夫さんですね。実は開店して45年でお店を辞めようと思っていました。もともとぶらぶらした人生だったから、なんとなく辞めるかなと。でもその方が開店以来、ずっと通ってくださった。白髪で足が悪く、ひどい病気だったんですが、個性的でとても面白い方でした。開店当初、もくれんでは業者さんの珈琲と、自家焙煎で深煎りした黒い豆の2種類から選んでもらっていたのですが、黒い豆の珈琲をよく飲んでくださった。

営業を始めた当初の珈琲は今でも店の窓辺に置いているのですが、店舗を改装する前、正面玄関から入ってすぐのその辺りは、足の悪い津田さんの指定席になっていました。

津田さんは病気でお亡くなりになったのですが、その方のことが印象に残っています。

 

(次回は5月10日(月)午後6時更新の予定です)